2010/11/13

相模七福神


相模七福神めぐり


七福神 名 称 所在地/交通
(恵比寿) 浄土寺 座間市四ツ谷 489
座間四ツ谷バス停下車
(布袋尊) 善教寺 海老名市杉久保 875
山城バス停下車
(毘沙門天) 本覚寺 海老名市本郷 4618
中河内バス停下車
(福禄寿) 増全寺 海老名市中新田 1578
コミュニティセンター前または中新田バス停下車
(大黒天) 妙元寺 海老名市大谷 3331
坂下バス停下車
(寿老人) 宗仲寺 座間市座間 1-3300
宗仲寺前バス停下車
(弁財天) 龍源院 座間市入谷 1-3530
座間または鈴鹿バス停下車


● 相模七福神めぐり( HP) 開催期間:元旦~節分

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( 相模の七福神 )

平成10年に創設され、座間市と海老名市にまたがる約35Kmのコース。
一日で巡るにはやや健脚向け、JR相模線を利用すれば、一日で巡ることも十分可能な距離。

 「七福神巡り」の開催期間は、毎年・元旦より節分まで、ただし色紙・御朱印帳(集印)などを希望する場合は、各寺で不在のこともあるので注意の事。




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● 浄土寺(恵比寿)

 山号は「心光山」、院号を「往生院」と号し、「心光山・往生院・浄土寺」と称する浄土宗の寺院。

 本尊は「 阿弥陀如来」、浄土宗・武蔵國滝山(現・八王子市)の大善寺の末寺として建立された。

 寺伝によると、開基は室町時代の元亀年間(1570~73)、四ツ谷村の村民であった市兵衛、開山は願譽門悦とされ、創建時は四ッ谷村三屋の西側にあったが、相模川の洪水により流失し、その後現在地に建立されたといわれる。

 宝暦十三年(1763)には類焼の災いにあい、その八年後の明和八年(1771)、本堂と庫裏を再建し、現在にいたっている。

 尚、境内には江戸時代、寺子屋師匠・保田安兵衛の供養塔(座間市指定重要文化財)があり、
座間市教育委員会の説明板によると、

「この碑は、座間市内では寺子屋の様相を知る資料としては最も古い資料の一つです。寺子屋師匠保田安兵衛(因幡国=鳥取県出身)にかかわるもので、生前の師匠の徳をしのび、教え子の筆子たちが七回忌にあたる宝暦八年(一七五八)に建立したものと思われます。」とある。

 江戸時代、座間市内で最も早く寺子屋を開いて近在の子弟の教育をしたと言われている。



・(場 所): 座間市四ツ谷 489
・(交 通): JR相模線・「入谷駅」下車、徒歩7分。 小田急線・「座間駅(西口)」下車、徒歩15分。



● 善教寺(布袋尊)

山号は「久光山」と号し、「久光山・善教寺」と称する浄土宗の寺院。

本尊は「 阿弥陀如来」。

 縁起によると、文禄元年(1592)に明誉光善大和尚により開山、開基は高橋又兵衛によって創建されたとある。





 

・(場 所): 海老名市杉久保 875
・(交 通): 山城バス停下車




● 本覚寺(毘沙門天)

山号を「吾妻山」と号し、「吾妻山・本覚寺」と称する真言宗・大覚寺派の寺院

本尊は「大日如来」。

本尊の「大日如来坐像」は、仏師・運慶の作とも伝えられ、海老名市指定重要文化財になっている。

15世紀中期以前の開山とされているが、明確な資料はない。


 

・(場 所): 海老名市本郷 4618
・(交 通): 中河内バス停下車




● 増全寺(福禄寿)

武州滝山(現・八王子)大善寺の末寺で、山号を「龍池山」、院号を「無量院」と号し、「龍池山・無量院・増全寺」と称する浄土宗の寺院。

本尊は「阿弥陀如来」、本尊の弥陀三尊像は江戸時代の「慈覚大師」作と伝えられる。

寺伝によると、開山は「因公学円上人」で、開基は鎌倉末期の領主・海老名源八衛広綱とされ、法名の「無量院殿龍池増全大居士」から山院寺号が付けられたといわれる。



・(場 所): 海老名市中新田 1578
・(交 通): コミュニティセンター前または中新田バス停下車




● 妙元寺(大黒天)

山号を「長秋山」と号し、「長秋山・妙元寺」と称する日蓮宗の寺院。

本尊は「釈迦如来」。

縁起によると、鎌倉時代の元弘元年(1310年)に池上本門寺・三世日輪が隠棲して開山、当地の地頭であった秋元刑部が子孫繁栄を願って屋敷を寄進、その後、名前を日長と改めて二世となり、山号を「長秋山」としたとある。


 

・(場 所): 海老名市大谷 3331
・(交 通): 坂下バス停下車




● 宗仲寺(寿老人)

 山号は「来光山」、院号を「峯月院」と号し、「来光山・峯月院・宗仲寺」と称する浄土宗の寺院。

 本尊は「 阿弥陀如来」。

縁起によると、徳川家康公の重臣で、この辺りを領地としていた内藤清成が、慶長8年(1603)実父・竹田宗仲の菩提のために、鎌倉岩瀬・大長寺の第四世・源栄上人を開山として創建したと伝えられている。

源栄上人は、家康公の厚い信任を受け、三河徳川氏の先祖・松平家の菩提寺であり、墳墓がある岡崎(愛知県)の大樹寺・第十九世住職となった後、当寺へ隠棲されたと伝えられている。

徳川家康公が鷹狩りの際に当寺に立ち寄ったとも、元和3年(1617)家康公の霊柩車を久能山から日光へ遷御の折、一行が休息したとも言われ、家康公から下賜された茶器一式、家康公木彫像(源栄上人作)、家康公肖像画一幅等が寺宝として伝えられているなど、家康公との縁も深い寺と言われる。 境内には、家康公御手植えと伝えられる銀杏の古木がある。

尚、「新編相模国風土記稿」には、
「東照宮兼て源栄を知しめざれしにより、中原御殿駐蹕の時は時々当寺に入御ありて、法義等の御談話あり。」などの記載がみられる。
 東照宮とは、家康公のことであるが、当時は現・平塚市に「中原御殿」を設け、東海道が主街道として本格的に整備されるまで、江戸と平塚を結ぶ「中原街道」を頻繁に往来していた。
 しかし、当寺は「中原街道」の街道筋とはやや外れていることから、わざわざ寄り道をしていたことになる。



・(場 所): 座間市座間 1-3300
・(交 通): 宗仲寺前バス停下車




● 龍源院(弁財天)

座間市・龍源院
山号を「水上山」、院号を「龍源院」と称する曹洞宗の寺院。

 縁起によると、山梨県上野原の清源院八世・格雲守存により、寛正2年(1461)に入谷丸山下(現在の富士山公園の西側・キャンプ座間内)に創建され、清源院の末寺となったと伝わる。

 のちに現在の地へ移転、その後、二世・実州存貞により、堂宇を改築し、その折に夢枕にたった白蛇のお告げにより、財宝・五穀豊穣を祈念して弁財天を造立したと言われる。



龍源院・弁財天
また伝説によれば、この寺の開基は、渋谷高間という平安・鎌倉時代初期にこの辺りを領地としていた豪族・渋谷氏の末裔であったとも言われている。

 渋谷高間は、先妻との間の子・小桜姫と後妻とその間の子の小柳姫を残したまま、山梨県上野原の報福寺で出家し、諸国巡礼に出てしまった。
 残された後妻のお松は、吾が子・小柳姫に家を継がせようと考え、小桜姫を殺して桜田(座間高校付近)の沼に埋めてしまった。

 ところが小桜姫と仲の良かった小柳姫は、悲歎・絶望のあまり自分も桜田の泥田に身を投げて自殺してしまった。
 事は村人に知れ渡り、お松は捕えられ相模川の堤防の補強のため、死刑の代わりに人柱として生き埋めにされてしまった。

 やがて巡礼から戻った高間は、留守中に最愛の妻子が三人ともあわれな死をとげたことを知り、自分の屋敷を寺とし、三人の成仏と自己の滅罪を祈った。これがこの龍源院のはじまりであるという。


■ 風牛学舎跡

 天保年間(1830年頃)になり、当寺の住職が寺子屋を開き、近郊近在の子弟を訓育していたとも言われ、明治5年(1872)になり、座間入谷・座間・新田宿・四ツ谷の四ヶ村の協力によって「風牛学舎(座間小学校の前身)」が設けられたが、開校間もない明治8年の夏、大雨のために裏山が崩れ本堂は押しつぶされ、学校は百メートルほど南方の鈴鹿明神社参道入口右側へ移されたと言われる。

■ 龍源院湧水

 当寺の境内右側(東方)の崖下から、「龍源院湧水」と名付けた清水が湧いている。
座間市教育委員会の説明文によると、
「この湧水は市水道部の調査(昭和52年3月20日調べ)では、水温17.8度。湧水量日量約170~180立法メートル(湧水量は夏・冬を通してあまり変化しない)。付近の鈴鹿明神社の境内や、後方の台地上には縄文時代の遺跡があることからも、おそらくその頃からこの湧水は利用されていたものであろう。そして古代以後は鈴鹿明神社の東側にあった池にこの湧水はたたえられ、南方に広がる水田の貴重な灌漑用水となってきたのである。」とある。

この周辺には他にも湧水が保存されていて、座間市により散策路が整備されている。
 


・(場 所): 座間市入谷 1-3530
・(交 通): JR相模線・入谷駅下車、徒歩7分。 小田急線・座間駅(西口)下車、徒歩10分。