「小栗判官と照手姫の話」の最も古い記録は、室町時代に書かれた『鎌倉大草子(かまくらおおぞうし』に記述されているものと、言われている。 遊行寺の『小栗略縁起(おぐりりゃくえんぎ)』とは、少し違っていて、「応永三十年(1423)の春、常陸国(茨城県)の住人・小栗孫五郎満重が謀反を起こしたので、 足利持氏は諸将を出動させて、小栗城を攻め落とした。 満重は三河国(愛知県)へ落ちのびた。
その子、小次郎助重は、関東に残っていたが、あるとき相模の権現堂という所で、盗賊がいるとも知らず一夜の宿を借りた。 賊は、小太郎が金持ちらしいので、毒酒で殺そうと謀ったが、酌に出た「てる姫」という遊女が、小太郎に毒酒であることを教えた。 そこで毒酒を飲むふりをして、賊どもが酒に酔っぱらったすきに宿を抜け出し、藤沢の遊行寺に駆け込むと、上人に助けを求めた。 哀れに思った上人は、弟子二人を付き添わせ、無事三河国まで送りとどけた。
盗賊たちは、酔いから覚めると、小次郎が逃げたのを知り、腹いせに宿の主人や、てる姫を捕らえ、川の中に投げ込んだ。 てる姫は、水に流されたが、川下で岸に這い上がり助かる。 その後、永享年間の頃に、小次郎は家来を連れ三河から藤沢へ来ると、命の恩人であるてる姫を探し出し、手厚く礼を与えた。 そして盗賊どもを討ち倒した。 江戸時代になると、この話が語り物となって、脚色され、説経浄瑠璃の 『小栗の判官』や、近松門左衛門の『当流小栗判官』、 文耕堂の『小栗判官車街道』、その他歌舞伎の演目に取り上げられた。 そして脚色が繰り返されたために、いろいろな異説が生まれることになる。
■ 説経浄瑠璃『小栗の判官』
説経浄瑠璃『小栗の判官』は、江戸時代の初期、寛永年間(1624~43)ごろに、 すでに台本として書かれていたようである。
ここでは、小栗判官は、三条高倉の大納言兼家の嫡子として登場する。
・・・・・・・・・ あらすじ ・・・・・・・・・
故あって常陸国に流されて、暮らしているうちに、武蔵・相模の郡代横山の娘、 「照手姫」のうわさを聞き、妻問いの文を送り、横山の館へ乗り込む。 娘は小栗を見て好意を抱くが、その兄弟が小栗の出現を不快に思い、人食い馬に乗せて、食い殺させようと謀る。 しかし、馬術の名人小栗は、秘術を尽くして荒馬を乗り回す。
そこで、兄弟たちは、毒酒を盛って小栗の命を奪うが、藤沢の遊行寺の上人のはからいで、遺体は土葬にされる。 姫も兄弟たちに憎まれて、海に流されるが、幸い漁師に助けられる。 しかし、人買いの手に渡り、美濃国(岐阜県)青墓で、つらい水仕事に明け暮れる毎日であった。
小栗は、死の直後、閻魔大王のもとへ連れて行かれるが、善人だということで、再びこの世に帰されることになった。 このとき、「小栗判官の遺体を、熊野本宮の湯に浸せよ」と書いた、藤沢の上人宛の書面が添えられていた。
小栗判官の墓から、餓鬼阿弥が現われる。これが小栗判官の変わり果てた姿だった。 上人は、書面を読むと、餓鬼阿弥を車に乗せ、「この車を引くものは、供養となるべし」との木札を胸に付けてやる。 車は、代わる代わる檀那の手で引かれた末、無事、熊野に着く。
餓鬼阿弥は、三七日の御湯に浸り、もとの小栗判官の姿に戻った。 小栗判官は、都に上り、両親を訪ねると、帝に事の次第を申し上げた。 帝も御感浅からず、小栗判官は常陸・駿河・美濃を賜ることになる。
出世した小栗判官は、美濃国(岐阜県)の青墓を訪ねると、照手姫と再会し、 都へ連れて帰えり、幸せに暮らした。 また横山一族らは、罰に処せられることになる。
(記念碑/その他) ・ ・ ・
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