JR御殿場線・山北駅から西丹沢行きバスで約十分、 旧国道246号沿いにある「四軒屋バス停」を少し戻ったところの道路沿いの下の方、 JR御殿場線の旧トンネル出口の上に、線守稲荷が祀られている。 かって東海道線は、箱根の山々を避けるように国府津駅から沼津駅までは今の御殿場線のルートを走っていました。 その後、1934年(昭和9年)丹那トンネルの完成により、熱海駅 - 沼津駅が開通し、現在のルートに変更されることになった。 この話は、開通まもない明治時代、東海道本線が、まだ御殿場を経由して走っていた頃の話です。
むかし、東海道本線が、国府津(こうず)から酒匂川(さかわがわ)ぞいに上り、 山北(やまきた)を経て御殿場(ごてんば)へとのびたのは、明治二十二年二月のことでした。
山あいをぬって流れる酒匂川のほとりに、「駒の子」という小さな村があって、 村はずれの川を見下ろす大きな岩山には、狐がすんでいました。 狐だから、ときどきは人をばかしたり、いたずらすることもありましたが、 急な坂道を息をきらせて荷車(にぐるま)を引いている人を見ると、そっと押してやることもありました。
そんなことが、冬の夜の茶飲み話に出るような静かな村も、鉄道が通ることになり、 線路(せんろ)を敷(し)くために、おおぜいの人がやってきて、工事を始めるようになると、 いっぺんにさわがしくなりました。
あまりのさわがしさに、狐がそーっとのぞきにいってみると、竹やぶも小山も畑もきりひらかれて、 二本の重そうな棒がながーくのびています。 そのうちに二本の棒は、どんどんつぎたされて、狐のすむ岩山の下までやってきました。
工事の人たちは、岩山にトンネルをほる計画(けいかく)を立てていました。 「そんなことをしたら、狐がおこって仕返しをするかもわかんねえ」 と、村人の中には、本気で心配する人もいましたが、工事はかまわずに進み、 ドカーン、ドカーンと、大きなハッパの音が、山や谷にこだましました。
工事もすんで汽車が走りだすと間もなく、機関士(きかんし)や車掌(しゃしょう)たちが、 ふしぎな目に会うようになりました。 「トンネルの前に牛が寝そべっているのを見つけてな。 あわてて急ブレーキかけて、追っ払おうと思ってすっとんでったら、なあんもおらんのだ」
「雨の日に、線路の上でだれかが赤いカンテラふってるから、 なんだと思って止めたら、おなじだ。だれもいねえ」 「いやまったく、狐につままれたような気分だわい」
話は、だんだん尾ひれがついてひろがりました。 まるで、見てきたように、さもおそろしそうに声をひそめて、 「ありゃ幽霊(ゆうれい)のたたりだ」 なんていう人も出てくるしまつです。
「駒の子村」の年よりたちは、 「なあに、巣を追われた岩山の狐のしわざだべえ」 と、うわさをしていましたが、とうとう鉄道でも、そのままにすておくわけにもいかなくなって、 原因をしらべることになりました。
そのやさきのことです。 ある夜、山北駅を出た汽車の機関士が、線路にうずくまっている、牛のようなものを見つけた。 この機関士は、たいそう気の強い人でしたから、 「ええい、どけどけ!」 とばかりに、汽笛(きてき)をならしてつっ走りました。
ところが、牛のようなものは、まったく動きません。 あーっと思ったときはもうおそく、ゴゴーン! とぶち当たりました。 急いで汽車を止め、飛び出してみると、線路のわきで狐が死んでいました。
「駒の子村」の人たちと鉄道の人は相談しました。 「狐は、昔からお稲荷さまのお使い役だといわれているから、どうでしょう、 ここへ京都の伏見稲荷(ふしみいなり)さまをお祀りしたら」
「おお、そうすれば、きっとあの狐の霊もなぐさめられますだ」 「これからは、たいせつな線路を守ってくださるように、線守稲荷と名づけてはどうでしょう」
みんな大さんせいで、お稲荷さまを祀りました。 お稲荷さまの位は、正一位(しょういちい)で、大明神とあがめられているところから、 このお宮は「線守稲荷大明神」とよばれ、鉄道の人たちや村の人がお詣りするようになりました。 それからは、あやしいことが起こるのも、ぷっつりとなくなったそうです。
―――― おしまい ――――
(かながわのむかしばなし50選)より
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● 線守稲荷大明神・解説文
この話は、むかし、むかしのそのむかしの遠い過去の話というには、 まだほのかに時の温もりが残る話とも言えるだろう。 明治時代になり、文明開化の波がおしよせた。 その一つが鉄道であった。 これは、そんなに遠い昔ではない頃の話です。
明治五年、品川-横浜(桜木町)間が開業、これが日本の鉄道の歴史のはじまりである。 明治二十一年には、横浜-国府津間が開業、さらに翌年二十二年には、国府津から箱根を北側に迂回し、 松田、山北、御殿場を経て、沼津から静岡へ至るルートが開通、以後、 昭和九年に丹那トンネル(熱海~三島の間にあるトンネル)が開通するまで、 東海道線は今の御殿場線を通っていました。
これは、東海道線がまだ御殿場を経由していた頃の話です。 狐やその他の動物が、列車の邪魔をする話とか、列車に化けて、人をおどろかすという話は、 本州、四国など各地で語られている。 たとえば、千葉県の成田線が、開業してまもない頃の、湖北駅あたりに出るといわれたトガというのは、 「狐のようで、狸のようで、ムジナのようなもの」で、しばしば夕暮れ時に、汽車に化けて人をおどろかしたという。
この話に出る「駒の子村」の狐は、いろいろなものに化けおどろかせるつもりが、 本当に汽車にはねられ往生してしまうという話。 狐はどうして逃げようとしなかったのだろうか。 それは近代化へのささやかな抵抗をしめす村人達の代弁者だったのだろうか。 その後、線路の守り神となり、人々に福を授けることになるが、なんとなく物悲しくもある。
当時、鉄道は、近代化を急ぐ日本を象徴するものの一つでもあった。 いまだ旧時代の暮らしを営んでいた山奥の小さな村に、突然として近代文明の波が押し寄せてきた結果、 村人達の途惑いと、警戒心、拒否反応が狐の姿を借りて語られたのかもしれない。 そして「線守稲荷の狐」は、村人達自身だったのかも。
≪ 正一位線守稲荷神社の謂れ(いわれ) ≫
明治二十二年二月一日、現在の御殿場線が東海道線として開通した当時、 足柄上郡山北町の鉄道トンネル工事でキツネの巣が壊され土地の人たちはキツネの仕返しを心配していました。 やがて工事が完成し、列車が通ることになったある日、大きな石が置いてあったり、 蓑、カッパを着た人が赤いカンテラを振ったり、女の人が髪を振り乱して手を振ったりするのが見えました。 機関士が急停車して確かめて見ると、全く異常はみられず再び発車しようとすると、 また灯がトンネルの出口で揺れだすというありさま。 こんなことが何日か続き、機関士の恐怖はつのるばかりだ。 ある晩のこと線路の上で牛を見つけた機関士はまた幻と思い「えい!」とばかり突っ走ったところ、 何かにぶつかり、急ブレーキをかけて停車してみると線路のわきにキツネの死体が横たわっていました。 箱根第二トンネル工事を請け負った建設業者の親方は、 工事中にキツネの巣をつぶしたことを思い返し当時の山北機区と相談し霊を慰めようとトンネル上に「祠」をつくって祭ることにしました。 伏見の稲荷神社からお札を受け「正一位線守稲荷神社」と命名し寒田神社の神主を招いて盛大な式を行なったところ、 果たせるかな幻のような現象はピタリと消えた。 それ以来毎年四月には大祭が行なわれているが、かつては歌舞伎役者による「キツネ忠臣」がうたれたりしたこともありました。 今では、線路の守り神としてJR御殿場工務区長が祭主を務め、 JR関係者はもとより多くの地元住民が参加して、 事故防止、家内安全の参拝を続けています。
平成六年四月吉日 正一位線守稲荷神社百周年記念
(線守稲荷の境内に建てられた神社の謂れの案内板より)
(記念碑/その他) ・ 山北町/線守稲荷神社 ・
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