2010/05/24

不知火の松


【  24.不知火の松  / (川崎市)  】

 
 川崎市の大師河原は、多摩川の河口付近にあり、その沖は、海の難所といわれるように、 むかしから海難事故の多いところでした。
  しかし漁師の浜も、埋め立てられ、今は石油コンビナートや製鉄所が並ぶ工場地帯になっていて、 もう海は見えません。
  これは、大師河原周辺が、まだ漁師の村だったころの悲しい物語です。




  むかし、大師河原(だいしがわら)の村に、父と娘の二人暮らしの漁師がいたそうな。
母は、娘が小さいときに亡くなり、父の手と村人の世話で、娘は育ってきた。
  父思いだった娘は、父が沖へ出て行くときも、見えなくなるまで浜に立って見送り、 帰ってくる時は、まっていて手伝っていた。

  年の暮れもおしせまったある日だった。
  夜が明けたか明けぬうちに、娘が浜から走って来て、
「お父(とう)、お父。今日は沖へ行くのはやめて、海が荒れそうだよ」
といった。

「少し風が出てきたようだが、このくらい平気だ。昨日今日の漁師じゃねえ。
それに正月もじきだ。
おまえに晴れ着の一枚も作ってやらにゃならないし」
そういうと父は、舟をこぎだしていった。

  沖へ舟を進めていくと、娘が案じたように、空には重く雲がただよい、 風が強くなり、波がさか立ってきた。
そして雪もふってきた。
  父は、舟を浜へもどそうとしたが、強い風にあおられ、沖へ沖へと流されるばかりだった。

  夜になると、吹雪(ふぶき)になった。
浜では、娘が父の帰りを待っていた。
「お父、お父、早く帰ってこー」
  松明(たいまつ)を振りつづけ、吹雪の中で村の場所を知らせていた。
「お父ー、お父ー」
  心ない吹雪は、娘のさけびを消してしまうのだった。
雪はしんしんとふり続け、村も浜も白一色につつんでいった。

  夜が明けると、昨夜とはうって変わったよい天気で、空には太陽がかがやいていた。
  だが、浜の松の下には、松明をにぎりしめたまま娘が息絶えており、そばには、 父がいたましい姿で打ち上げられていた。
  浜の漁師たちは、父と娘を松の下にねんごろにほうむり、漁に出るときはぶじを祈り、 沖から帰ると一日の漁の礼をいった。

  やがて、夜になると松のこずえに灯がともるようになったそうな。
  漁師たちは、その灯を沖から見て、
「亡くなった父娘(おやこ)が、わしらに村の場所を知らせてくれているのだ」
といい、この松を不知火(しらぬい)の松と名づけたそうな。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 不知火の松・解説文  

  川崎の大師河原は、今は石油コンビナートや製鉄所が並ぶ工場地帯になっていますが、 昔の大師河原の沖は、海の難所でした。
小島新田の近くには、海で遭難してなくなった人を供養した無縁仏の碑がありました。

  また、観音町の石観音の境内には、城ケ島から江戸へ向かう途中、 この沖で遭難した人を供養するために建てられた「海中溺死者男女塚」の碑があります。
天明五年(1785)三月六日とあり、二十七人の名が刻まれています。
「城ケ島村権右衛門娘さち二十歳」と刻んだ文字もあり、不知火の松の伝説は、 こうしたところから語られてきたのかもしれない。

  不知火とは、昔、景行天皇が海路筑紫(九州)に行幸されたとき、 暗夜に何とも知れない火が海上に現れた、という故事から名付けられたもので、 九州の八代湾辺りで、夏の夜に見える無数の火影が知られているが、俗に千灯篭ともいう。

  現在のように灯台も電気もない昔は、夜、沖から浜に舟を進めることは大変で、 浜にそびえる松の大木などは、よい目印となったのであろう。
  松のこずえに灯をともし、海路の目標にしたという話は、 全国に分布していてとくに竜神伝説と合わさり語られているものが多く、 横浜市神奈川区浦島丘の竜灯の松や、藤沢市江ノ島に伝わる竜灯の松伝説などが知られている。
  その多くは、竜神が松に灯をともし、沖を通る船の航行を助け、安全に導いたというものである。

  その後の川崎の「不知火の松」は、砂浜の埋め立てにともないなくなってしまったが、 その埋め立て地は、「夜光町」と名付けられたとも言われている。
今では、石油コンビナートの明かりが、まるで不夜城のように、夜空をあかあかとてらしている。


 (記念碑/その他)
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