このはなしは、箱根・芦之湯から、芦ノ湖畔の元箱根に向かう、 国道1号線沿いにある『精進ヶ池』にまつわる伝説です。
このあたりは、江戸時代に「東海道」が整備される前の鎌倉時代、 「湯坂道(旧鎌倉古道)」と呼ばれ、箱根越えの主要道であった。 今も「曾我兄弟と虎御前の墓」といわれる五輪塔や、 鎌倉時代の石仏・石塔群が点在している。
むかし、箱根の芦之湯(あしのゆ)に、庄治(しょうじ)という若者がいた。 庄治は、目の病におかされ、そのさびしさをまぎらわすために、夜ごと池のほとりに立って尺八を吹いていた。 もとより、他人に聞いてもらおうという気などなかった。ましてこの池のあたりは、 夜ともなれば人通りもなく、おそろしいほどさびしいところである。
いつの頃からか、庄治の尺八の音がひびきはじめると、必ず一人の乙女が、 池のほとりにあらわれ、魅入られたように、聞きほれるようになっていた。 そのような夜が、いく夜も続くうちに、女は庄治とことばをかわすようになり、 二人は、深い仲になった。 しばらくの間、二人の恋はひそやかに続けられた。
月がしだいにまるみをおび、明日は満月という夜、女はいつもとちがって、 うちしずんでいたが、やがてなみだながらに話しはじめた。 「今までかくしていましたが、わたしは人間ではありません。この池の主の大蛇(だいじゃ)なのです。 下界に下ってここにすんでいましたが、ようやく年と月がみちて、天にのぼる日がきました。明日がその日です」
おどろく庄治から目をそらし、女はことばを続けた。 「わたしが天にのぼるそのとき、村も山もおし流されて、すべて泥海になり、村の人はみな死ぬことになっています。 でも、あなただけは、死んではいけません。今夜のうちに、できるだけ遠くへにげてください」
問いかけようとする庄治をおしとどめるように、女はさらにいった。 「このことは、決して人に話してはいけません。人に話せば、あなたの命はありません」 と告げるや、女は悲しげに池の中に消えて行った。
庄治は、村人が死ぬのを見すてて、にげることなどできないと思った。 だが、村人に話せば、自分は死ななければならない。 庄治は、なやみぬいた末、たとえ自分は死んでも、大ぜいの村人を、助けようと決心した。 庄治は、急いで村へ帰ると、村人たちにこのことを知らせた。
村は、大さわぎになった。 みんなは、どうしてよいかわからないでいた。 なかには、村から逃げ出そうとする者もいた。
そのとき、一人の老人が、 「みんな、いいか、大蛇は鉄気をきらうと、むかしから言われとる。 どうじゃ、明朝までに、村じゅうの鉄っけのものをかき集めて、みんなであの池に投げ込んだらどうじゃ」
明け方、村じゅうの鍋(なべ)、釜(かま)、鍬(くわ)、鎌(かま)、鋏(はさみ)、 庖丁(ほうちょう)などの金物が、一つ残らず集められた。 村人たちたは、これらの金物を、つぎつぎに池に投げこんだ。
池は、鉄っけでみるみる血のように赤くそまった。 すると、にわかに黒雲が天をおおい、あたりは闇(やみ)につつまれ、雷鳴(らいめい)がとどろき、 突風(とっぷう)とともに、大雨がなぐりつけるようにふりだした。村人たちは、おそれおののき、 岩かげに身をひそめ、抱きあってふるえていた。
やがて、風雨と雷鳴は、うそのようにおさまり、太陽がまぶしく照りつけていた。 生きた心地(ここち)もなかった村人たちが、おそるおそる岩かげから出てきて、あたりを見まわすと、 池には、のたうちながら死んだ大蛇がうかんでいた。 そのさまは、何かをのろうようなものすごい姿だった。
そして、村人たちは、 「すんでのところで、村は全滅するところだった。これも庄治さんが、 知らせてくれたおかげじゃ。ありがたいこった。庄治さんに、礼を言わねば」 といいながら、日和見坂(ひよりみさか)にさしかかると、草むらに庄治がたおれていた。 それは、まるで大蛇にしめ殺されたように、全身にうろこがつきささっていて、すでに息がたえていた。
その後、村の人々は、いのちがけで村を守ってくれた庄治のために、日和見坂のところに供養塔をたてて、 その霊を祀ったということです。 このことがあってから、あの青々とした池の水は、鉄っけで血のように赤くなり、 魚もすまなくなったということです。 そして、誰いうとなく、この池を「庄治が池」と、呼んでいましたが、 いつのまにか「精進ヶ池」と呼ばれるようになったということです。
―――― おしまい ――――
(かながわのむかしばなし50選)より
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