旧東海道の宿場町で、時宗・総本山の遊行寺の門前町として栄えた藤沢宿から、 東へ戸塚の原宿村との間に、「影取池」と呼ばれる大きな池があった。 このはなしは、この池の名前に由来する悲しい伝説である。
むかし、藤沢宿のはずれの大鋸(だいぎり)に、森というお大尽(だいじん)がいた。 広い屋敷には、白壁の土蔵がいくむねもならび、朝日、夕日にはえていた。 その土蔵の一つに、いつのまにか一ぴきの蛇が、すみついていた。 森家の大旦那は、「蛇は、水神さまのお使いじゃ」と、おはんと名づけ、 酒や米をあたえてだいじに育てていた。
おはんは、おかげで何不自由なく暮らし、十年もたつと大蛇となり、一日に米一斗、 酒五升も平らげるほどになった。 だがそのころから、森家の栄華な暮しは、だんだんかたむき、大旦那が亡くなって、 若旦那の代になると、みるみるうちに落ちぶれていき、蔵のなかには、クモの巣がはるというありさまだった。
それでも若旦那は、大旦那のいいつけを守り、苦労して米や酒をもとめてきては、 おはんに食べさせていた。 ときには夜もふけてから、 「おはん、おそくなってすまん、すまん。腹へっただろう」 と、わずかの米や酒を運んでくることもあった。
おはんは、その姿を見るにしのびなかった。 「わたしのために、若旦那はすきなお酒もやめてしまった。わたしさえいなければ、・・・・・ 」
ある夜、おはんは、蔵をぬけ出すと、あてもなく戸塚宿の方へ向かっていった。 そして、道すじに池を見つけると、そこに身をしずめた。
おはんは、こうしてこの池に、すみついたものの、今までとちがって、 自分で食べ物をさがさなければならなかった。 夜をまっては野や山をさまよっていたが、いつも、むなしく池にもどってくるのだった。
そんな日が、いく日もいく日も続いた。 そして美しかったはだも光を失い、からだはやせ細っていった。 おはんは、もう食べ物をさがしにいく気力もなくなり、空腹をこらえじっと池の底にうずくまっていた。
そんなある日、池のそばを通りかかった村人の影が、池にうつった。 おはんは、思わずその人影をのんだ。 するとふしぎなことに、米や酒を飲みこんだような満腹感を、あじわうことがきた。
「おお、ありがたい。これで生きながらえることができる」 おはんは、それから池にうつった人影をのんで、暮らしていた。
ところが村では、 「あの池のはたを通るな。池の主の大蛇に影をのまれて、いく日もたたぬうちに、死んでしまうぞ」 といううわさがひろまった。
そうしたとき、原宿のある宿に、江戸の鉄砲うちの名人が泊った。 それを知った村人は、大蛇退治をたのんだ。 「うーむ、うつことはやさしいが、池の底では、弾丸(たま)がむだになるばかり・・・・。 どうだ、だれか池のふちを歩いてみないか。 すれば、池の主は、その影をひとのみしようと、水面に出てくる。そこをねらってうつのじゃ」
村人は、まっさおになった。 この話を、すみの方で聞いていた旅の商人(あきんど)がいった。 「藤沢の宿で聞いたのじゃが、その主は、おはんという名の大蛇かもしれぞ。 なんでも、大鋸の森という家で、だいじにかっていた大蛇が、急にいなくなったということじゃ。 ためしに、池から離れたところから、大蛇の名をよんでみなされ」
鉄砲うちは、ひざをたたいた。 「それじゃ、それじゃ、池からはなれたところで名を呼ぶんじゃ。 それなら影も池にうつらないし、死ぬことはない」 話は、そう決まった。
つぎの日、鉄砲うちは、池からはなれたところで、鉄砲をかまえ、村人の一人が、 池のはたの木のかげから、 「おはん、おはん、おはん」 と、おそるおそるよんだ。
それを聞いた、池の底のおはんは、 「おお、わたしの名を呼ぶのは、誰だろう。 若旦那の声とは、すこし違うようだが、わたしの名を知っているなんて、森家の人にちがいない。 きっと暮しもよくなり、わたしを迎えにきてくれたのだろう」 と、おはんは、よろこんで水面に上がってきた。
そのとき、"ズダーン " 弾丸は、おはんの頭をつらぬき、その血で池は真っ赤にそまったという。 その後、大蛇がすんでいたこの池を、「影取池」と呼び、村は「影取村」、 鉄砲をうったあたりを「鉄砲宿」と呼ぶようになったということです。
鉄砲宿は、今も影取の藤沢よりに、地名として残っている。 影取池は、いまはなくなってしまったが、むかしは、広い池で東海道より一段下がったところにあり、 元文五年(1740)の東海道駅路図にも、「蛇の池、影取池」と記されている。
今は、ただ、バス停に「影取」の名が残されているだけである。
―――― おしまい ――――
(かながわのむかしばなし50選)より
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