海老名市国分は、奈良時代(天平年間)相模国分寺があったところとされ、 発掘調査跡が広場になっていて、入口にある海老名市資料館「温古館」には、その模型が展示してある。 国分寺跡から少し南へ坂を下ったところに、現在の国分寺(東光山・醫王院国分寺)があり、 境内に『尼の泣き水』の供養碑がある。 このはなしは、天平のむかし、国分寺跡のさらに北側にあったとされる「国分尼寺」の若い尼と、 若い漁師との悲恋物語である。
千二百年ものむかしの、天平十三年、相模国に国分寺がつくられた。 金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、中門(ちゅうもん)、 南大門(なんだいもん)などの七堂伽藍(しちどうがらん)、天をつくような七重塔(しちじゅうのとう)が朝日、 夕日にはえていた。 人々は、はるか遠くから国分寺をながめて、奈良の都のようだとあがめていた。
やがて、国分寺の近くに、国分尼寺(こくぶんにじ)がつくられた。国分尼寺の尼と、 国分寺の僧とは、親しくなることがきんじられ、二つの寺の間には、川が掘られていた。
そのころ、国分寺の下を流れる相模川で、あみをうって暮らしている若い漁師がいた。 漁師は、いつしか国分尼寺の若い尼と知り合い、たがいに愛し合う仲となり、 夜になるのをまって、人目をさけて河原で落ち合っていた。
ある日の夜、尼は、日に日にやつれて行く若者を見て、 「どこか悪いのではありませぬか」 とたずねたが、若者はだまっていた。 「いうてくだされ。何か心配ごとでもあるのでは ・・・・・ 」 さらに尼がたずねると、若者は、かすかにうなずいて話しはじめた。
「このごろは、いくらあみをうっても、魚がかからないのです。 このままでは、ここでは暮らしていけません。それで、ほかの土地へ行って ・・・・ 」 ここまで話すと、若者はだまって立ち去ろうとしました。
「まえには、たくさんとれたというのに、どうしたことでしょう。 おねがいです。ほんとうのことをいうてくだされ」 尼は、若者にすがるようにしてたずねました。
若者は、もうしわけなさそうに話しました。 「魚がにげていってしまったのです。 川につきささるような太陽の光をおそれて、にげていったのです」 それを聞いた尼は、不思議に思いました。
「太陽の光、それなら今までも同じはずなのに、どうして ・・・ 」 そこで若者は、国分寺の金色に輝く伽藍を見つめながら、うらやむようにいいました。 「あれに太陽の光が当たり、その照り返しですさまじい光がさすのです」 尼は、立ち上がって、月の光にくっきりとうかぶ国分寺を見つめていましたが、 それ以上何も言えず、二人はさびしそうに別れていきました。
その日の夜、ま夜中です。 「火事だー!、火事だー!、国分寺がもえてるぞー」 村人たちは、さけびながらとんでいきました。 見ると国分寺が、メラメラとくるったようにもえ、きょだいな火柱となって天をこがしながら、 くずれ落ちていきます。
おそろしい一夜が明けて、しずかな朝がおとずれました。国分寺の焼けあとは、 まだくすぶっていましたが、あの金色に輝いていた伽藍は、一夜のうちに焼けおちていました。
それからいく日かたって、国分寺の火事は、恋にくるった尼が、火を放ったのだ、 といううわさが、村々にひろまっていました。 そのときすでに、若い漁師に思いをよせていた尼は、放火のはんにんとして、 とらえられていました。 そして、丘の上で、刑場(けいじょう)のつゆと消えたのでした。放火の罪(つみ)は、 それはそれは重く、鋸引(のこぎりび)きの刑になったということです。
やがて、尼がほうむられた台地の下からは、なみだのようなわき水が、 一てき、二てきと落ちるようになり、それは湧き出る泉のように、つきることがなかったということです。 これを見た村人たちは、 「これは尼さんが罪をわびて流している涙(なみだ)だ」とも、 「恋する若者との別れるつらさに流した涙」ともいって、 このわき水を「尼の泣き水」と呼ぶようになったということです。
その後、国分寺へお詣りにくる巡礼(じゅんれい)たちは、 「朝日さし、夕日かがやく国分寺、いつもたえさぬ、尼の泣き水」と、 ご詠歌(えいか)をうたいながら、鈴をふって、 かわいそうな尼の冥福(めいふく)を祈るようになったということです。
―――― おしまい ――――
(かながわのむかしばなし50選)より
|