平塚市と大磯町の間を流れる花水川下流の、平塚側を撫子原(なでしこはら)、 大磯側を唐ケ原(とうがはら)と呼んでいますが、河口近くの一帯は、 古くから唐ヶ原(もろこしがはら)と呼ばれ、大磯からこの辺りにかけては、日本に渡来し、 帰化した唐(から)や高麗(こうらい)出身の人たちが住んでいたといわれている。
この話は、撫子(なでしこ)の花にまつわる悲恋の物語です。
むかし、花水川(はなみずがわ)の下流にある唐(もろこし)の里に、 清らかに美しく、心やさしい一人の乙女(おとめ)がおりました。
乙女には、愛しあう若者がいました。 若者は、唐の里の生まれではありませんでした。 いつどこから来たのかは、若者が話さないのでよく分かりませんが、 おっとりした品(ひん)のよいところが感じられて、 乙女は、 「もしや、元は身分の高い都(みやこ)の方が、何かわけがあってこの地に来たのかもしれない」 そう思うのでした。
愛しあう喜びに、乙女の胸はいっぱいでした。 でも、その幸せは、長くは続きませんでした。 若者が、唐の里を去ることになったのです。
乙女は、目の前がまっ暗になったようでした。 どうしてよいか分からず、なん日も、なん日もただ泣いて暮らしました。 別れの日、若者は乙女を浜辺へ連れて行き、里人が三ツ岩とよんでいる岩に腰を下ろし、 乙女をはげますようにいいました。 「いつの日か、わたしは必ずおまえのもとに帰ってくる」 乙女は、若者のことばをささえにして生きていこうと思いました。
唐ヶ浜(もろこしがはま)の船着き場から、すべるように出て行く若者の乗った船を、 三ツ岩の上で、乙女は手をふることもわすれ、いつまでも見つめていました。
それから一日たりとも、三ツ岩の上に乙女の姿を見ない日はありませんでした。 若者のことばを信じて、待ち続ける乙女の上に、月日は流れていきました。 だが、若者からは何のたよりもとどけられず、そのうちに病(やまい)におかされた乙女は、 心を残しながらあの世へ旅立ちました。
それからどれだけたったでしょうか。三ツ岩もいつしか砂丘の下にうもれました。 しかし、三ツ岩をおおいかくした砂丘には、撫子(なでしこ)の花が一面に咲いて、 花びらを海からの風にゆらめかせるようになりました。 「あの撫子の花は、きっと乙女の生まれ代わったものだろう」 里人たちはそう思うのでした。
―――― おしまい ――――
(かながわのむかしばなし50選)より
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