2010/05/03

大庭の船地蔵


【  3.大庭の船地蔵 / (藤沢市・大庭)  】


 藤沢市の大庭(船地蔵公園横)、県道石川線とライフタウンの三叉路に、 船形の台座に乗った地蔵像がある。以前は道路右側にあったが、道路拡張により現在地に移された。 舟形を台座にしているので、「船地蔵」と呼ばれている。
  江戸時代中期以前のものといわれ、引地川の水害から稲を守り、豊作を願ったといわれる。




  むかし、むかしの永正九年(1512)夏、小田原の北条早雲が、上杉朝興(ともおき)の守る大庭城を攻めたときのこと。
  武将太田道灌により堅固に修築された城は、たびかさなる小田原北条勢の攻撃にも、落ちるけはいがありません。

  北条軍は、大庭城の北側の丘陵地から攻めましたが、尾根沿いの細道は、多勢でいっきに攻めることもできず、兵を失しなうばかりです。
  南から攻めようとしても、城の南側は、引地川が作り出した沼地で、兵が容易には近づけません。戦いは長期戦になろうとしていました。

  そんなある日のこと、沼の近くの茶店に一人の旅の者が立ち寄った。旅人は、団子を求め、何やかやと世間話をしておったが、 沼を見て「のお、婆さま、水がいっぱいある沼じゃが、一年中こうなのかね。水の枯れるときはないのかい」と、聞いたと。

  「旅の方や、そりゃありますがな、この沼は、湧き水でねえです。引地川の水を引いていますだ。その取入れ口の堰を止めて、 下の堰を開けば、水は枯れてしまいますがな。堰のところでいいあんばいに調節してくださるで助かるですわ。でなかったら、大水のときは、 わしの店は沼の底になっちまいますがな」

  「ほー、堰がのお、それは知らんかった。で、その堰はどこに」
「わしは、まだ行ったことがねえですが、何でもこのずうーっと先の稲荷とか申すところとか。なんなら行って見なせえ。堰番の人もいますだ」

  旅人は、銭を払うとあわただしく去って行った。この旅人というのは、実は、北条軍の武士が、変装していたのだった。
「うーん、良いことを聞いたぞ。大庭城はおちたも同然。だが、敵もさるもの、きっと茶店を訪ね、わしらの行動をさぐるに違いない。 すれば、せっかくの聞き出しも水の泡。堰の守りを固めるに違いない」

  武士は、北条軍の館へと戻ると、そのことを報告した。その晩、茶店の婆さんは、戦いをまえに口封じのために、北条方の家来により斬られてしまいました。
  そして、北条軍は、ただちに南方にある堰守りを攻め落とし、堤を切ると、婆さまの言う通り、沼は干上がりました。 城を包囲していた北条軍は、いっきに攻め、上杉軍を滅ぼすことができました。

  戦いが終わり、茶店の婆さまのことを聞いた村の人たちは、あわれに思い、手厚くほうむるとともに、何年かたってお地蔵さまをたてて、 その霊を慰めたということです。
  船にのせて極楽浄土へ送ってやらなきゃと、いうのでだんごを持たせて、船に乗せてやったということです。


―――― おしまい ――――



 ● 大庭の船地蔵・解説文

  藤沢市大庭は、相模野台地の南端部にあたり、中央部を引地川が流れている。
引地川沿いの低地と、標高10~50メートルの丘陵の間の谷戸につくられた水田は、かっては「大庭千石」とよばれ、 藤沢市のなかでも、もっとも広い水田地帯でした。

  大庭の地名は古く、平安時代の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の中にもみることができる。
平安末期、この地を支配していた鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)は、荒地だったこの一帯を開発し、 伊勢神宮に寄進した。
これが『大庭御厨(おおばみくりや)』の始まりともいわれている。

  鎌倉権五郎景政については、詳しい資料はなく、桓武平氏の流れをくむともいわれているが、諸説あり、さだかではない。
しかし、鎌倉、藤沢周辺には、権五郎景政を祭神とする御霊神社が、いくつかあることからも、 古くからこの地方の有力支配者であったことが想像できる。
その子孫が御厨司(下司)となり、大庭氏を名のったともいわれている。
  下司・大庭景宗のころ、引地川と支流の小糸川とにはさまれた台地上に、中世城郭の大庭城を築き、 大庭氏の居城としたと言われている。

  その後「源平の戦い」の治承四年(1180)、平氏側に加担した大庭城主・大庭三郎景親(かげちか)は、 源氏についた兄、景義の手により固瀬(片瀬)で処刑される。
その景義も建久四年(1193)失脚し、城も、大庭氏滅亡後は廃城となっていた。
  室町中期になり、相模国の守護となった扇谷上杉氏(おおぎがやつ・うえすぎ)により、 糟屋館(伊勢原市)と鎌倉を結ぶ中間にある大庭城を、修築し出城としていた。
伝承では、上杉氏の家臣・太田道灌(おおたどうかん)が、修理築城したともいわれている。

  永正九年(1512)夏、扇谷上杉氏と、山内上杉氏の主導権争いのすきをつくようにして、 小田原の北条早雲が、いっきょに大庭城を攻め落とそうと兵を向けてきた。
大庭城には、上杉朝興(ともおき)(朝良(ともよし)とする資料もある)がたて篭もり迎え撃った。
  しかし、大庭城は、北条氏により攻め落とされると、早雲により相模の押えとして築かれた鎌倉・玉縄城の支城的役割しかなくなり、 秀吉の小田原攻めにより小田原北条氏が滅びると、再び廃城となり、以後、城がつくられることはなかった。

  現在、大庭城址公園となっている周辺には、門先、裏門、駒寄、二番構、城下、城南、 城山などの地名がみられる。
バス停「船地蔵」のそばに祀られている『船地蔵』にまつわる伝説は、この時の北条氏の大庭攻めの様子を次のように伝えている。

  北条軍が、大庭城がまわりを水で囲まれているため、なかなか攻め落とすことができずにいたとき、 稲荷の「だんごくび」というところで、ぼた餅を売っていた老婆が、北条軍の兵士に、堰を切れば、 堀の水はすぐに干上がってしまうことを教えた。
  この話を聞いた北条の兵は、堰を切って大庭城を落とすことができたが、秘密がもれては困るということで、 この老婆を殺してしまった。
このとき老婆の死をいたんだ土地の人々が、船に乗った地蔵尊をたてて、お祀りするようになったという。   だが、なぜ船に乗っているのか。

  また一説には、このあたりではしばしば大水が出て、これは「だんごくび」のおばあさんや、 戦いで死んだ北条方の兵のたたりではないかということで、当時の名主だった大六さんが、たてたのだともいわれている。
  このほかにも、このおばあさんは、「だんご売り」ではなく、甘酒を売っていたのだという説や、 「源平の戦い」で大庭城落城のとき、大庭景親(おおば・かげちか)に関わりのある女性が、 船に乗って逃げる途中で、死んでしまったので、それを供養するために、船に乗った地蔵を作ったのだという説もある。
  また、「船地蔵」のある周辺は、引地川の氾濫原であった低湿地が広がり、たびたび水害を受けていたため、 水害から田畑を守り、農作物の豊作を祈願して建てられたとも、度重なる水害で亡くなった人々を、 供養するために建てられたとも言われ、ここから少し奥まった谷戸の路傍にも、小さな「船地蔵」がある。

  「だんごくび」とは、引地川が稲荷の台地に狭められたところを意味する地名とも言われている。
ここは、ちょうど台地が、川にせりだして狭くくびれたような地形になっており、大水が出る時などには、 堰のようになったのではないだろうか。
  天正十九年の「検地帳」には、「たこくびり」という地名が記されてあり、この「たこくびり」とだんごくびは、 同じ場所を指していたのかもしれない。
「たこくびり」が、「だんごくびり」となり、それが「だんごくび」に変わったという説もある。
  そして、「だんごやのおばあさん」がいたという伝承がうまれ、北条攻めのときの伝承とが結びついたのが、 「船地蔵」の伝説になったのではないだろうか。
おばあさんの顔をしたお地蔵さんが、手に持っているのは、「だんご」だという人もいる。

  大庭地域の下流にある現在の柏山稲荷神社は、大庭城の水門の堰守だった、 吉田・西山両将監の屋敷跡ともいわれ、大庭景親が平清盛にたのんで、城の守護神として安芸の厳島神社から、 水と武勇の神である弁才天を、勧請したともいわれる。
  境内には、「厳島千人力弁天社」があり、景親が城の守りのために、引地川をせき止め、 水門をつくり、その守り神として弁才天を祀ったところとも言われている。
  ここにある池は、将監淵(しょうげんぶち)、またはショッキ淵とも呼ばれていて、 水門に使われたと思われる太い丸太が出土したこともある。
現在、藤沢バイパスになっているあたりに、北条軍との戦いで討死にした吉田・西山両将監ら数十名を祀ったといわれる首塚がある。





 (記念碑/その他)
   ・ 藤沢市大庭/船地蔵
   ・ 藤沢市大庭/大庭城址公園
   ・ 藤沢市稲荷/柏山稲荷神社








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