茅ヶ崎市西久保の田村大山街道(県道藤沢・伊勢原線)が、小出川にかかる大曲橋(旧間門橋)に、『間門川伝説・河童徳利誕生の地』と書いた、大きな看板が立っている。 かっては「間門川(まかどがわ)」とよばれていたが、河川改修され、すっかり地形が変わってしまった。
この話は古くから語り継がれていたようで、江戸時代後期に書かれた『宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)』(天保2年(1831年)/山田桂翁により編纂、 宝暦年間(江戸中期)以降に見聞きした江戸の風俗見聞集。)には、次のような記述がみられる。
『相模ノ大山街道間門ノ河童ハ、馬ニ対スル悪計露顕シテ打殺サレントセシヲ、間門村ノ三輪堀五郎兵衛ノ先祖、例ノ如ク命乞ヲシテ放還ス。鎌倉時代ノ出来事ナリト伝フ。 此時ノ礼物モ鱸(スズキ)ガ二本ト酒徳利ニシテ、其徳利ノ酒ハ酌メドモ、尽クルコト無カリシ由。今ハ既に空徳利トナリ、魚ノ図ト共ニ永ク家ニ伝エタリシヲ、 天保二年四月二至リ、江戸本所ノ彫刻師、猪之助ナルモノ実見シ来リテ人ニ語ルトイフ。』
記述によると、間門村(まかどむら)の五郎兵衛さんのご先祖が、鎌倉時代に河童からもらった徳利は、その後代々伝えられ、 やがて江戸時代になり「大山詣で」(現・神奈川県伊勢原市大山/大山阿夫利神社)が盛んに行われるようになると、参拝者で賑わう街道沿いの見世物小屋に置かれるようになり、 それを見てきた江戸の「本所」に住む猪之助という彫刻師が、「大山詣で」をした帰りに旅の土産話として見聞きした事を、近所の人々に話して聞かせたのを噂話に聞いて,書きましたと言ったところか。
伝説は長く語り継がれるうちに少しずつ変化していくもので、例えば五郎兵衛さんの酒好きの知り合いが、徳利の酒を一滴残らず飲み干したためにそれから酒が出なくなったとか、 語る人により話しに尾ひれが付き、この「河童徳利」の話もいくつものお話が伝わっている。 働き者の主人公が、一時酒びたりの怠け者になるが、改心してもっと働き者になるといった「教訓話」の一つであろうか。
「河童徳利」は、高さ七寸(約二十一センチ)、底四寸(約十二センチ)あまりで、約三合(約0.5リットル)の量が入ります。 口のところが少しかけていましたが、これにも逸話が残されていて、 明治十二年刊の『皇国地誌草稿』に、「天保元年(1830)十一月、徳川幕府の閣老のある者が、徳利の陶質を確かめようとして、陶工に調べさせた。陶工は、 徳利の口が少し欠けていたので、更に欠いて調べたが、解明できなかったという」
この話に出てくる五郎兵衛(「五郎左衛門」という説もある)さんは、文政七年(1824)正月二日に亡くなったとされています。 ちなみに、鎌倉時代に河童から「徳利」をもらったご先祖さんの名も「五郎兵衛」さんという説もあり、代々「五郎兵衛(または「五郎左衛門」)」を名のっていたのかもしれません。 五郎兵衛さんの墓は、西久保の三堀家(三輪堀家の御子孫?)の屋敷内にありましたが、今は、静岡県川根町千頭(静岡県榛原郡川根本町上長尾・智満寺 (ちまんじ)に「カッパ徳利(カッパとっくり)の伝説」の碑がある。) に移されたとか。
その後「河童徳利」は、大山街道沿いの小屋に飾られ、街道を行き交う「大山詣」の人々の人気を集め、街道の名物になっていました。 大正二年、神奈川県庁落成を記念して、横浜の野沢屋で開催された、「県民政資料展覧会」にも出品されたことが、『神奈川県民政資料小鑑』に記載されている。
この「河童徳利」も、関東大震災や、さらに太平洋戦争で行方不明になっていましたが、戦後、静岡県川根町千頭のある家から見つけられて、昭和四十二年五月五日に、 五郎兵衛((五郎左衛門)の遠縁にあたる、茅ヶ崎市円蔵の小室家に戻り、家宝として保存されていたともいわれています。
河童の話は、北海道から沖縄まで、全国に分布していて、その中には、「河童徳利」の他にも命を助けられた河童が、恩返しする噺(はなし)もいくつか残されている。 お詫びとして、魚や、酒の尽きない徳利、使っても銭の減らない壷であったり、詫び状であったりする。 神奈川県には、このほかに横浜市神奈川区に『滝野川の河童』、川崎市麻生区柿生の『河童の詫証文(わびしょうもん)』など、いくつか河童の話があります。
(記念碑/その他) ・ 茅ヶ崎市西久保の小出川にかかる『大曲橋(旧間門橋)』 ・ 茅ヶ崎市円蔵の『輪光寺』 ・ 静岡県榛原郡川根本町上長尾の『智満寺』
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