2010/05/05

日向薬師のやぶれ太鼓


【 5.日向薬師のやぶれ太鼓 /(伊勢原市・日向薬師) 】

  
 伊勢原市の北部、大山の山ふところに、ひっそりと建っている日向藥師は、かつて日向山霊山寺といわれ、 元正天皇(716年)の頃、行基によって開創されたと伝えられる、日本三藥師の一つです。
  ここの本堂の奥には、一つの太鼓がある。皮がなく、胴だけの鳴らない太鼓だが、神奈川県一の大太鼓といわれている。
  どうして皮がなくなったのだろうか、ここに一つの伝説を紹介します。




  むかし、むかし、善波峠のふもとの善波村に、天をおおうような楠がデーンと生えておった。遠くから見ると、 まるで森のようだったと。
大楠は、村人の自慢のたねになっておった。
「おら、楠の村の者じゃ」といえば、どこの村へいっても、
「ほー、善波のお人じゃな」と、いわれるくらいじゃったと。

  ところが、こまったことに、村じゅうが木かげになって、稲も麦も栗も、ちょぼっとしか取れないことだった。
  秋になり、取り入れの祭りがくると、あたりの村からは、
「豊年だあー、満作だあー」の笛や太鼓の音がなりひびいたが、楠の村では、太鼓ひとつならなかった。

  こんなことがずーっと続いたある年、村で寄り合いがもたれた。
「楠をきってしまうべ」と、いう者もあり、
「いや、きったらたいへんだ。村を見守ってこられた楠さまじゃ。切ったらたたりがあるぞー」と、いう者もあり、もめにもめておった。

  寄り合いは、いく晩もつづいたが、最後に、楠の太い幹のところで太鼓を作って、日向の薬師さんへ奉納し、残った木で、村の橋をかけかえることにきまったと。
  村じゅうの男たちがあつめられ、楠を切る仕事がはじまった。
カキーン、カキーン、カキーン、きこりのうち下ろす斧の音が、あたりの山々にとどろいた。

  いく日も、いく日もかかって、とうとう、楠がたおされる日がきた。
村の衆は、遠くから楠に手を合せて、長いことご苦労さまと、となえておったと。
楠が、地ひびきをたててたおれると、村は、パーッと明るくなり、お天とうさまがまぶしく照っていた。

  太鼓作りと橋のかけかえがはじまった。 橋作りは村の大工やこびき、それに若い衆も働いた。太鼓の方は、江戸からきた職人が大木をくりぬいた。
村をあげての大仕事。いく日も、いく日もかかった。やがて皮もはって、大太鼓ができあがった。
ドドーン、ドドーン、ドーン
太鼓は楠で作った橋をわたって、日向薬師へ向かった。

  そして、太鼓は、日向薬師のお堂に、長いことおさめられていたが、たまたま薬師へお参りにきた、源頼朝の目にとまった。
「うーむ、これはりっぱな大太鼓、富士の巻き狩りに使おうぞ」
ということになって、大太鼓は足柄峠をこえて、富士の裾野へ運ばれていった。
日本一の富士の山、ふもとでひびくは日本一の大太鼓。
ドドーン、ドーン、ドーン、ドーン

  すさまじい大太鼓のひびきに、たまげたけものたちは、森から飛び出した。それらを捕らえる巻き狩りの武士たち。
大太鼓のおかげで、巻き狩りは大成功だった。
大太鼓が薬師へ帰ってくると、村の衆は、まるで戦場から凱旋してきた武士をむかえるように、拍手をおくったと。

  大太鼓は、また長いこと本堂の中でねむっておったが、巻き狩りの話を、先祖から聞き伝えていた日向の人たちは、時刻(とき)をつげるのに、 この太鼓を打ち鳴らすことにした。
ドーン、ドーン、ドーン

  朝もやをついて打ち鳴らされる太鼓を合図に、村人は野良仕事へ向かった。
一日働いて、太陽が大山の向こうにしずむころ、大太鼓が鳴った。
その音を聞くと、村人は、いそいそと家へ帰っていった。
大太鼓は、こうして村人とともに暮らしておった。

  ところが、大太鼓のひびきは、おどろおどろと山や野をこえ、相模川を伝わって、なんと海にまでとどいたのだと。
これにたまげたのが、相模湾の魚たち。沖へ沖へと逃げていってしもうたそうな。
平塚の須賀の漁師たちは、魚がとれなくなってこまってしもうた。

「どうも、あの音のせいじゃ。いったいなんだべー。雷ともちがうし・・・。それも朝夕のきまった時刻にひびいてくるよ。よーし、つきとめて、退治してやるべ」
漁師たちは、もり、かま、ぼうを持って、音のする山の方へ向かっていった。

「そろそろ聞こえてくるころだ」
漁師たちは、音がひびきはじめるのをまった。
ドーン、ドーン、ドーン

漁師たちは、音のする方へと走った。 そして大太鼓を見つけた。
「うーむ、こいつが魚を追っぱらっていたやつだな。 それ! やっちまえ」
太鼓の皮は、破られてしまった。
そして、日向薬師の大太鼓は、鳴らないやぶれ太鼓になってしまったのだと。


―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

● 日向薬師のやぶれ太鼓・解説文

  日向薬師は、正式には『日向山霊山寺(ひなたさん・りょうせんじ)』といい、霊亀二年(716)僧行基によって開かれたとされ、 現在は十二坊のうち、宝城坊だけが残り、その本堂は、万治三年(1660)の再建といわれています。
  本堂の奥にある大太鼓は、口径1.38メートル、胴回り4.9メートル、長さ1.3メートルもあり、神奈川県の重要有形民俗文化財に指定されている。(現在は非公開となっている)
  胴の内部には、元文九年(1540)に皮の張り替えをしたことが書かれているが、今は皮がない。
源頼朝が富士の裾野で巻き狩りをしたときに、この大太鼓を使ったという伝説もある。

  大太鼓を作った大楠は、善波(ぜんば・秦野市)の勝興寺にあったとも、飯塚家の五反畑にあったともいわれています。
  また、大太鼓を作った残りの木で、善波じゅうの橋をかけたといい、京都の銀閣寺の天井の五尺(約1.5メートル)ほどの一枚板も、 この大楠から作られたという伝説がありますが、さだかではありません。

  太鼓の音が、相模湾までとどろいたという話は、この他にも東京都町田市に次のような伝説がある。
  むかし、成瀬に御嶽堂という寺があった。寺の鐘は黄金作りで、朝日、夕日がさすと異様に輝いた。
その響きは、相模の海までとどろき、驚いた魚は逃げてしまい、漁師は不漁を歎いていた。 怒った漁師らは、大挙して寺を襲い、火を放った上、鐘を引きずり下ろし、谷間に落として埋めてしまったという。



 (記念碑/その他)
  ・ 伊勢原市の『日向山霊山寺』(日向薬師)






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