2010/05/07

善正坊の一しょい門


【  7.善正坊の一しょい門  / (愛川町・半原)  】

  
 江戸時代の中ごろ、半原の馬渡(まわたり)にある善正寺(ぜんしょうじ)に、 善正坊(ぜんしょうぼう)という、相模国(神奈川県)を代表する、ものすごい力持ちのお坊さんがいた。
  その後、善正坊が住んでいたと言われる善正寺は、廃寺となり、石塔が残るだけ、 これは「青雲寺の山門」と善正坊にまつわるお話です。




  あるとき、寺のそばを流れている中津川が大洪水になった。いくつも渦(うず)をつくりながら、 おそろしい速さでながれる川は、そのままにしておくとあふれて、村はたいへんなことになる。みんなはまっ青になって川岸に立ちつくした。
  そのとき、大きな戸板を持って、ざんぶと川へ飛びこんだ者がいる。

「あっ、善正坊だ! 何をするんだ。 流されてしまうぞ!」
村人は、思わず目をおおった。ところがなんと、善正坊はその戸板を使って、たった一人で川の流れを変えてしまった。
村は助かった。
  ちょっと考えられない怪力の坊さんだが、ふだんはまんまるなやさしい目で、にこにことして、だれもおこった顔を見たことがなかった。

  むかしは、川の流れを利用して材木を運んだ。丹沢の山からきり出された木は、中津川へ流され、 善正寺の少し川上の馬渡河原(まわたりがわら)にいったん引き上げられ、そこでいかだに組まれて、また川へ押しだされるのだった。

  あるとき、いつもの年よりも、はるかにたくさんのけやきが、馬渡河原へ集められていた。
「山のけやきをぜんぶきり出したっていう話だ」
「将軍さまのおられる江戸城の普請(ふしん)に使うんだそうな」
そんなうわさが、河原で働く者たちの間にとびかっていた。

  善正寺の親寺は清雲寺(せいうんじ)といって、近くの馬渡坂の上にあったが、見た目がなんとなくさみしかった。
それは、山門がなかったからだった。善正坊は、それをなんとかしたいと、いつも心にかけていた。
  そこへ、山門を建てるのにぴったりの材木が、山積みされているのを見て、善正坊は、じっとしていられなくなり、 出かけて行くと、あれこれ指図している役人にたのんでみた。

  江戸城の普請(ふしん)の材木だから、ふつうなら相手にされないのだが、たのみにきたのが坊さんで、その上、 「この体に、一しょいする分だけでけっこうです」
というので、それならしれたものだ、と役人はうなずいた。

  次の日、善正坊が材木をもらいにやってきた。『やせんま』というせおい道具を持ってきたが、 まるではしごのように長くて、がんじょうな作りになっていた。
  役人は、腹の中でわらった。

「こんな大きな道具を持ってきて、一体どうするつもりなんだ。やれやれ、とんだ欲張りの坊主だわい」
善正坊は、おかまいなしに、けやきを積みはじめた。
積み上がったのを見て、役人は声を出してわらった。まるで小山のようなけやきのたばだった。
「まさか、これを ・・・・・ 」
そのまさかが、本当になった。

  小山のような『やせんま』を、善正坊は、どっこいしょと背負ってしまった。
そして、お礼をいうように手を合わせると、すたすた歩き出したのだ。
  役人は、ぽかんと口をあけて、見送るだけだった。

  清雲寺の山門は、こうして善正坊が「一(ひと)しょい」してきたけやきで建てられ、今も残っている。 そして、半原の人たちは、この山門を『一しょい門』とよんでいるそうな。



―――― おしまい ――――


(かながわのむかしばなし50選)より

  ● 善正坊の一しょい門・解説文

  江戸城の普請(ふしん)は、大きいものは大名を動員しての「天下普請」(建物や、道路、水路、橋、堤防などの建設や修理などの大規模な工事を行うときに、諸国の大名に資金や資材、労力などの提供を促した)で、 ほかにも江戸市中の大火災の類焼による修築などが、何度か行われています。

  「善正坊の一しょい門」は、天保年間(1830~45)頃の話とも伝えられていて、そうだとすれば、 天保九年(1838)三月の、江戸城西の丸火災修復のときの話とも考えられる。

  善正坊の怪力話は、このほかにも臼(うす)を手玉に取って放り投げたら、本堂の屋根を越えて、 寺の裏庭へ落ちたという話などがある。
 また、話のなかにでてくる「 やせんま(やせ馬)」とは、農家の人が山仕事や、野良仕事のさいに背中に背負って荷物を運ぶ「背負子(しょいこ)」のことで、「しょいばしご」などとも言い、薪(まき)や、稲ワラ、農作物などを背負って運ぶ道具のこと。

 むかしは、これで荷物を運ぶ事を生業(なりわい)とした人達(歩荷(ぼっか)、強力(ごうりき)などとよばれていた。)もいて、一人で100~150kgもの荷物を背負って運んでいた。
 かって新田次郎著の小説「強力伝」のモデルとも言われ、著名な富士山強力(御殿場)・小見山正氏は、50貫(約180kg)の巨石(風景指示盤)を北アルプスの白馬岳山頂(標高2932m)まで担ぎ上げた。
 
  相模には、怪力で知られる和尚がもう一人いました。厚木・長福寺の東陽和尚で、あるひでりの年に、 厚木村と妻田の村が、水あらそいをしたとき、長さ九尺(約2.7メートル)もある山門の大扉を、外して担いで行き、 それで両村の間を流れる小鮎川を、せき止めて仲直りをさせた、という話が伝わっています。

  力持ちの話は、全国各地にあり、その主人公が権力者よりも、村人のために怪力を使うという点が、共通しているようです。



 (記念碑/その他)
  ・ 神奈川県愛川町半原・清雲寺








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