2013/06/30

夏越の大祓


夏越の大祓

■ 大祓(おおはらえ)

 大祓(おおはらえ・おおはらい)とは、百官万民の犯した罪や触穢(しょくえ:神道上において不浄とされる穢(けがれ)に接触して汚染されること)を除き去るために行う祓の神事で、古くは、陰暦六月(水無月)と十二月(師走)の晦日(みそか)(閏年の際は、閏月の晦日)に、大内裏(だいだいり)の南面に位置し、宮城の正門として最も重要とされた朱雀門(すざくもん・しゅじゃくもん)において行われた宮中行事であった。

 6月を「夏越・名越(なごし・なごえ)の祓(はらい・はらえ)」とか「水無月祓え(みなづきはらえ)」、12月を「年越(としこし)の祓」とも言った。

 このように年中行事として定期(決まった期日)に大祓を行うようになったのは、「大宝令(たいほうりょう)」(8世紀・飛鳥時代後期)以降からとも言われ、その後100年間ほどは盛大に行われていたらしい。

 延喜式には、各大臣以下、官位が従5位以上のいわゆる高級官僚(貴族等)らが朱雀門に集合し、行われていたと記されている。

 儀式の次第には、内侍(ないし)、奉行官人、祝師(のとし・のりとし)の座を設け、祓物(はらえもの:罪やけがれをはらうために供える品物)をつらねる等の準備がなされ、酉刻(とりのこく:現在の午後6時頃)諸司官人が参入し着座する。
 御贖物(あがもの:身のけがれや災厄を代わりに負わせて、川などに流す装身具や調度品。形代(かたしろ)など祓えに用いる道具)、祓物を持ち出し、祓馬が引き出される。

 神祇官人が切麻(きりぬさ:麻または紙を細かく切り、米と混ぜ、祓い清めるために神前にまき散らすもので、小幣(こぬさ)とも言う)を頒ち、祝師が祝詞(のりと)をよみ、大麻(おおあさ)が分けられ、次いで祓物を撤去して儀式は終了となる。
 
 その後、平安時代(10世紀頃)になると次第に衰徴し、応仁の乱(1467~1477)以後、廃絶したと言われていたが、「明治維新」になり王政復古の大号令のもと、かっての宮中行事も復活され、明治4年(1871)には、宮中の賢所(かしこどころ・けんしょ:宮中三殿の1つで、三種の神器の1つである八咫鏡(やたのかがみ)を祀ってある所。内侍所ともいい、多くの皇室祭祀(さいし)がここで行われる)前庭の神楽舎を祓所にあてて行われるようになり、戦後も6月30日と12月31日には「節折(よおり)の儀」と、「大祓の儀」が行われている。

 宮中行事として衰退していた時代でも、神社では大祓を行っていた所も多く、京都の上・下賀茂神社の大祓、大阪の住吉神社の夏祓などが有名である。 その他、大祓神事として「茅輪祭」を行う神社も少なくない。
 
 明治政府は、明治4年に節折・大祓式を復興し、天下一般にも大祓を行うよう布告し、翌5年6月その祭式の規定が府県に達せられた。
 これに従い、戦後になってからも年中行事として大祓の神事を行う神社は多く、また病疫・水魔の難を免れるための民間の風習として、6月の夏越の祓を行う風は、僅かながらも全国各地に受け継がれている。

 6月1日の「川祭」、15日の「祇園祭」、晦日の「大祓」などを中心に、6月は祓の行事が多い月でもある。 古来より夏を迎え疫病の流行や、水災・水に関する災厄の多い時期をひかえ、心身の穢れを除くための重要な節目の時期と考えられていたのであろう。



■ 「茅輪(ちのわ)神事」

 神社の夏越神事には、茅の輪(ちのわ)を潜る「茅輪神事」が行われることが多いい。

 「すがぬき」ともいい、茅(かや)を束ねて輪の形に作って、神社の鳥居の中、または拝殿の前におき、これを参詣者がくぐることにより、病災をまぬかれるという信仰。

 茅輪神事の由来は、「備後風土記」の逸文として鎌倉時代中期の『釈日本紀』に引用され、その後、民間信仰として日本各地に広まった「蘇民将来説話」が起源とも言われている。


 むかし、北海に住む神様・武塔神(ぶとうしん:素盞嗚尊(スサノオノミコト)の別称で、武塔天神とも言う)が、南海に住む女の神さまを、よばいに行かれる途中で日が暮れたので、「蘇民将来(そみんしょうらい」・「巨旦将来(こたんしょうらい)」の兄弟の家に一夜の宿を乞われた。

 弟の「巨旦」は、富んで大きな屋敷に住んでいたが、惜しんで宿を貸さなかった。 兄の「蘇民」は、甚だ貧しかったが、快く尊(ミコト)をお泊め申し、粟がらを座に敷き、粟飯をたいて心よりもてなした。
 尊は、これを喜ばれると共に「巨旦」に対して怒りを抱かれ、後年、八柱の御子神を引き連れて再び「蘇民」を訪問され、「蘇民」とその家族の腰に呪具たる「茅の輪」を着けさせておき、その夜、神力をもって弟の「巨旦」とその家族をことごとく殺し、滅ぼしてしまわれた。

 そして、「蘇民」に「吾は速須佐能雄能神(はやすさのおのかみ)なり。後の世に疫気在らば、汝、蘇民将来の子孫(うみのこ)と言いて、茅輪を以って腰上に着けしめよ。詔(みこと)のまま着けしめば、即ち家なる者まさに免れむ」といわれたという。
 この由来により「蘇民将来」や「蘇民将来子孫」と記した護符が、災厄を払い、疫病を除いて福を招くと信じられ、門口に書いておくと、災厄が侵入せぬという俗信を生じ、また祓の神事に茅の輪を作って潜るようになったという。
 護符には、紙札、木札、茅の輪、ちまき、角柱など、さまざまな形状・材質のものがあり、「祇園祭」で知られる京都の八坂神社では、期間中「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が配られる。

 御所に仕える女官達によって書き継がれたとされる「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」にも、茅萱で輪を作り麻の葉2~3本を紙に包んで持ち、輪の中に左足から入って右足から出る。
 これを三度くり返し、「水無月(みなづき)の、夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は、千歳(ちとせ)の命、延(のぶ)というなり」という歌を三度となえるとある。


■ 「形代(かたしろ)神事」 

 「形代神事」もまた、夏越に行われる祓の神事である。 白紙を人形(ひとがた)に切ったものを形代といいます。 これに自分の名前を書き記すことにより分身となった人形に息を吹きかけ、あるいは名前をぬぐうことで穢れを託すと、神官が祓を行った後、麻の葉とともに川へ流すことで穢れを祓います。

 また、形代は男女により紙の色(女性は赤色の場合など)や、形が異なる場合もあり、川に流さず御焚き上げにより除災する神社もある。

 なお、川辺に斎串(五十串:いぐし)を立てて、臨時に設けられた仮社を「川社(かわやしろ)」といい、榊(さかき)を立て篠竹で棚をつくり、神供を供え、神楽を奏して川祓の祭りを行うこともあった。


 また、陰暦から陽暦(現行暦)になってからは、7月晦日に行われるものも多く、近年はそれに近い土、日や祝日などに行う神社も少なくない。



 その他、地方によっては「ナゴシ」という名称でこの日を節日としている所もある。

 中国地方では、ナゴシの日に牛を水辺につれて行って遊ばせたり、広島県では「サバライ」と言って牛馬を川に連れて行き、洗ってやるなどの行事が行われていた。
 かって牛馬が農作業や移動、荷運びの手段として使われていた頃、農作業などが一段落するこの時期に、日ごろの労をねぎらうという慰労の意味もあったのであろうか。
 
 また、古い髪の毛を紙に包み、「水無月の夏越の祓いする人は、千歳の命延ぶるというなり」という古歌を書いて川に流すといった風習や、壱岐地方では、「ナゴシ」とも「イミ」ともいって、牛を海で泳がせたり、井戸さらえや川の神、田畑の神の祭りをした。

 長崎県島原地方では、小麦粉に餅の薬と言うものを加えてこね、夏越饅頭というものを作る風習もあった。