2015/01/07

歩射


歩 射(ぶしゃ)


■ 歩射(ぶしゃ)とは

 歩射(ぶしゃ)とは、主として正月に行われる神事で、流鏑馬(やぶさめ)のように騎乗から矢を射る騎射(きしゃ)に対し、馬に乗らず徒歩(かち)立ちで矢を射ることを意味する言葉とある。 
 「和名抄」、「枕草子」には”かち弓”とあり、いずれも徒歩での弓戯を意味する言葉として記されている。

 地域によって奉射(ぶしゃ)・舞謝・仏者などとも書き、また飛射(びしゃ)・備謝とも、奉射(ほうしゃ)、ムシャなどとも呼ぶ。 あるいは弓祈祷・御弓神事・弓始神事・蟇目(ひきめ)神事・射去祭(いさりまつり)・百手(ももて)・的射(まとい)などと呼ばれることも多いい。

 新年の始めに、破魔の目的と、年占いの意味を兼ねた神事で、神官あるいは頭屋、地区で特に選ばれた若者・子供たちが厳しい斎戒を経て射手となり、神社の斎場などにたてられた的を射る。

 的は、「鬼」(あるいは鬼から頭のノの字を省いた変字を書く)という字を書くところが多く、また、大蛇の眼をかたどった金的をたてるところもある。

 また、歩射で弓を射た後の的(まと)は、「的(まと)やぶり」などと称して参詣者が競って奪い取り、持ち帰って悪魔除け・病気除け・五穀豊穣などの御守りにする風習も多く見られた。


■ 弓矢と神事

 弓矢の歴史は古く、旧石器時代末の1万5000年前ごろにはすでに狩猟の道具として発明され、その後戦いの武器としても使われるようになったと考えられている。

 人類が今日のように地球上で繁栄出来た重要な要因として、石器などの道具の発明や、火の使用、さらに言語(言葉や文字)の発明などがあげられている。

 道具は、自然石や木、動物の骨などを加工し、食糧の狩猟・採取のための道具や、獲物の動物を解体したり、木を削ったり、また石器を使って石器を造ったりする「道具を造る道具」として用いられ、火は、肉や木の実・植物を加熱して食べることで人間の食生を豊かにし、暖をとったり、灯りとして、動物から身を守たりする上で大きな進歩であり、土器や金属器などを作り出す手段としても画期的な役割を果たした。

 さらに言語(言葉や文字)の使用は、意思を伝達・伝承する手段として集団(コミニティー)を形成するうえでも重要であり、原始社会が文化を持ち、自然に対する崇拝や、畏敬の念、死の概念、等が原始宗教を生み、シャーマニズムが形成され、様々な儀式や儀礼を通して共同体を維持していく役割をはたしたと言えよう。

 古来より、これら原始宗教の儀式において、「弓矢」や「火」が除霊・悪霊払いなどの重要な呪具・神祭具として用いられることも多く、狩猟道具の中でも特に「弓矢」が、飛び道具として古代人にとっても如何に画期的なものであり、当時の狩猟技術に革命的進歩をもたらしたという事と無関係ではないであろう。

 狩猟や戦い、獣(けもの)から身を守るなどの場面において、それまでの斧や槍、投げ槍などの道具に比べ、はるかに機能的で威力を発揮したと考えられる。 その威力から霊力が宿るとされ、目には見えない悪霊、魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちに対しても、発揮出来ると考えたのであろう。

 その後、狩猟や戦いの道具は、「鉄砲」の発明により「弓矢」から「鉄砲」へ取って代わったが、呪具・神祭具としての「弓矢」の霊力は、「鉄砲」に取って代わられる事なく、神意を啓示する呪具として神聖な使命を失うことはなかった。


■ 日本の射祓祭事

日本では縄文時代前期(15000年〜10000年前)頃に、既に狩猟の道具として弓矢が使用されていたと言われている。
 さらに、日本の古墳時代に中国・隋で書かれた『隋書倭国伝』(6~7世紀)には、倭人の生活を記載した一部に、「 卜筮(ぼくぜい)を知り、尤も巫覡(ふげき・ぶげき)を信ず。正月一日に至る毎に、必ず射戯、飲酒す。 ・・・・・ 」などの記述があり、少なくとも千三百年以前の日本に、弓矢を以ってする呪芸が、中国大陸の隋にも知れ渡るほど盛行していたと思われる。

 さらに、それが毎年・正月という特定の日に限定され、飲酒を伴っていたとしたら、何らかの儀式、行事として季節的に固定されたものであったと考えられる。

 現在も伝承されている主な射祓祭事(ここでは、弓矢を使用して行われる呪術性をもった神事・行事などを、仮に射祓祭事とした)を、下記の三種類に類別してみた。(尚、これはあくまで個人的な見解で、民俗学などの学術的に正確な分類ではありませんのでご了承ください。)


1.歩射(ぶしゃ)

 歩射を辞書で見ると、徒歩立(かちだち)で弓を射る意。 本来は騎射(うまゆみ)、すなわち馬に乗って弓を射るものに対する語で、『倭名抄』、『枕草子』には‶かち弓‶とある。すなわち歩立(かちだち)、馬に乗らずに弓を射ることの総称であるが、一方でかなり早くから、神前で大的を射る奉射(ぶしゃ)と混用されてきた。

 現在では、一般に弓矢で的を射る歩射(ぶしゃ)を指し、おもに正月に行われる神事で、的によって大的、小的、草鹿(くさじし)、円物など多くの種類がある。 年占(としうら)や魔除(まよ)けの意味をもち、今日でも「びしゃ」「ほうしゃ」「ほしゃ」などともよんで全国各地に伝わっているが、本来の姿を失って、酒宴や会食だけにおもかげをとどめている所もある。

 音韻のブシャから、奉射・舞謝・飛射(ビシャ)・備射・武射(ムシャ)・奉射(ホウシャ)などとも呼ぶ。 


2.蟇目・引目(ひきめ)

 射祓の1種。 矢を空間に放つ時、音響を発すること。 また神事としては、特定の標的を設置しないことを特徴とし、矢の先端の矢尻が木製の鏑(かぶら)型をした、桐(きり)または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔(あな)をうがったもので、鏑矢(かぶらや)と言われる矢を用いる。
 
 ヒキメの語源としては、前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているからという説や、矢を射たときに矢尻の孔に風が入って音を響かせるところから、その音が蟇の鳴き声に似ているからという説、響目(ひびきめ)の略、などの説があり、蟇目・引目・挽目などの漢字があてられる。

 元々は、実用の狩猟具として、狐狸猛鳥などを、まず音響で威嚇し、生きながら捕えるために用いたと言われるが、後に目に見えぬ邪鬼・妖魔・妖気・怨敵などを呪圧・払浄・退散させる呪具とされ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの除摩儀式などに用いられた。

 神事として継承されたものには、神社などで行われる祭事の際に、神迎えの祭場を浄める呪具として四方(東西南北)に矢を放ち邪気を祓うもの、、節分祭などの追儺式では鬼門・裏鬼門の方位の天(天の弓)と地(地の弓)に鏑矢を射る所作をみせ、邪気を祓うなどの儀式を行うものなど。

 民間の風習としても、正月の破魔矢を縁起物として飾ったりする風習や、新築の上棟式の際に、鬼門の方角(東北)と裏鬼門の方角(西南)に向けて、屋上に二張りの飾り矢(天の矢・地の矢)を設けたり、鳴弦の儀と称して、神職が実際にこの方向に向けて弓射を行なうのも、こうしたことの名残りであろう。

 また、「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」など、矢を使わず、弦を引いて弦打つ(つるうち)の音を四方(東西南北)へ向け発することで、魔除け・邪気を祓う等の儀式を行うこともある。


3.流鏑馬(やぶさめ)

 騎射(うまゆみ)の一種で,馬場に並行して数間おきに立てた方板の三つの的を,射手が馬に乗り馬場を馳せながら、雁股(かりまた)をつけた鏑矢(かぶらや)でこれを順次射る射技。 その名は「矢馳せ馬(やばせめ)」の転訛(てんか)とも言われている。

 古くは『日本書紀』の天武九年 (680)の条に長柄社における馬的射がみられ,平安時代に入ると宮廷行事として行われていたが、平安後期から鎌倉時代にかけて武士の武芸鍛錬の一として、犬追物(いぬおうもの)、笠懸(かさがけ)とともに騎射三物(きしやみつもの)と呼ばれた。

 したがって、射祓・卜占性より武術としての様相が強くなり、神社・神前にその技量を奉納するといった意味合いが強くなっていったとも思われる。

 鎌倉時代を最盛期に以後武士の間では衰退するが、江戸時代に至って、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が古記録などをもとに再興して小笠原(おがさわら)家に伝え、現在も神奈川県鎌倉市の「鶴岡八幡宮」などの神事として継承されている。



■ 全国の歩射神事

 長野県下伊那地方の「雪祭り」では、鬼に扮する者が的を持つ。 これは、「悪魔退散」の意図を具体的にあらわしたもので、首尾よく射抜くと、その年は悪霊がいなくなって疫病が治るとか、豊年になるとか言われた。

 また、愛媛県三芳町黒谷の「大元神社」で旧暦正月3日に行われていた弓祈祷では、280本もの矢を射た後、弓関と呼ばれる射手の頭役が「結願的(けつがんまと)」といって、とどめの矢を射るが、もしこれを射損じると不吉がおこるというので、その場合はもう一度最初からやり直したという。

 また、愛知県の「熱田神宮」の歩射神事(正月15日)などでは、昔は社人六百家が集まって的射を行ったが、誤って射損じた者は家屋を没収されたという言い伝えさえあった。

 一般には、的に当たらなくても、一応当たったこととして「豊作だ~、豊作だ~」と叫ぶ土地も多くあった。 また、各集落の代表者が出て、射競べを行い、勝った方の集落が豊作にめぐまれるとしたところもあり、綱引き・押合(押合祭)・相撲神事などと同様、豊凶の年占いに用いられた。

 また、弓祈祷などでは、個人同士の射競べが行われ、点数を数えて神前に報告するという形のものもあり、子供たち同士が行なう場合などは、年占よりもむしろ競技的な色彩が濃厚なこともある。
 江戸時代には破魔弓(浜弓ともいう)といって、子供が遊びに弓を用いる風習もあったという。

 また、広島県福山市鞆町「沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)」の御弓神事(本来は旧暦1月7日⇒2月第2日曜)や、福岡県粕屋郡志賀町「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」の歩射祭(ほうしゃさい)(もと旧暦1月15日⇒新暦1月15日)のように歩射を行う前に「献盃の式」や、「扇の舞」と呼ばれる舞を丁寧に行なわれるところもあり、東京都新宿区「中井・御霊神社」、「葛谷・御霊神社」の備射(おびしゃ)祭(1月13日)などでも、歩射に先立って厳重な献盃祝詞(のりと)の式を行う。

 関東地方でも近年は、一般に実際の歩射の行事を略して、正月に集落の氏子達が神社で集会し、酒宴だけ行うのを「備射(おびしゃ)」と称する所も多く、また四国や九州地方でも、「百手(ももて)」と称して弓の神事を行うところは多いいが、ここでも実際に矢を射ないで祭のことを「モモテ」と呼んでいるところもある。

 また、正月に行われていた「備謝祭(びしゃまつり)」と言われる行事では、多くが地区・集落の中で講または組ごとにわかれて、その年の当番である家を訪れ、酒食の饗応を受ける風習があった。
 千葉県市原市などには、当屋(当番の家)の座敷で、二人ずつが相対してにらみ合いをし、先に笑った方が負けとして大盃で酒を飲むといった習慣もあったようで、これも客を強歓待(こわもて)するのがその本質であろうと思われる。 また、饗宴ののち、氏神様を祀る神社へ集まり御籠(おこも)りするところも普遍している。

 「備射(備謝)・ビシャ」は、元来弓を射ることを意味する「歩射・ブシャ」から出た言葉であり、したがって本来は正月初頭に行われる弓射の神事をいったが、時代とともに神事の方が廃れ、単に祭日の名称あるいは村人の祭の酒宴という形で後世に受け継がれていった場合も多いい。


《 全国の歩射神事一覧 》
社 名 祭 名 祭 日 所在地
山王神社 鬼打ち 1月1日
神戸市北区有野町唐櫃
大歳神社 引目祭 1月3日
神戸市北区山田町小河
天津彦根神社 引目神事 1月11日
神戸市北区山田町西下
天彦根神社 引目神事 1月第2日曜
神戸市北区山田町下谷上
志賀海神社 歩射祭 1月15日に近い日曜
福岡県福岡市東区志賀島
八阪神社 引目神事 1月16日
神戸市北区山田町原野
天津彦根神社 引目神事 1月16日
神戸市北区山田町原野
上賀茂神社 武射神事 1月16日
京都市北区上賀茂本山
沼名前神社 お弓神事  2月第2日曜
広島県福山市鞆町
櫨谷神社 弓引き神事  3月第2日曜
神戸市西区櫨谷町福谷

(参考資料)
・ マト(弓引き) (神戸市・神戸の民俗芸能HPより)



■ 神奈川の歩射神事

 かつては、神奈川県下の歩射の特徴として、下記の様なものが挙げられたが、近年は後継者不足、材料の入手困難などの事情もあり、細部に至っての伝承が途絶えたものも少なくない。

⑴ 特定の地域から採取した竹・葦・草類で的を作る。
⑵ 的に「鬼」字、または鬼の象形を描く。
⑶ 呪力の宿るとされた特殊な矢を用いる。
⑷ 射手は、おおかた尸童であること。
⑸ 行事ののち、的や矢を厄除け・豊穣祈願・悪魔除けなどの御守りとして家々で保管される。
⑹ 司祭者は宮司ではなく、旧社家・社人などが宮座式組織によって執行するところが多い。
⑺ 祭期は正月に行われるが、近年はそれ以外で行うところもあり(元来は正月に行われた)。



《 神奈川の歩射神事一覧 》
社 名 祭 名 祭 日 所在地
鎌倉鶴岡八幡宮 弓始神事 1月5日
鎌倉市雪ノ下
田名八幡宮 的祭(まとまつり) 1月6日
相模原市中央区水郷田名
川勾(かわわ)神社 的 祭 1月7日(今絶)
二宮町山西
長尾神社 歩射(ヤブサメ) 1月7日
川崎市多摩区長尾
日枝神社 歩 射 1月7日
川崎市中原区上丸子山王町
白髭神社 奉射祭 1月7日
小田原市小船
鹿島社 七種祭り 1月7日(今絶)
横浜市港南区上大岡
寒川神社 武佐弓祭 1月8日
寒川町宮山
子之神社 歩 射 1月9日
川崎市多摩区菅北浦
高石神社 歩 射 1月14日
川崎市麻生区高石
白幡八幡大神 初卯祭 3月初卯日
川崎市宮前区平
白岩神社 歩射(ヤブサメ) 1月7日(現・3月7日)
大磯町西小磯

* なお、祭日については元々行われていた月日を記したもので、近年は変更されている場合も多く注意の事。


■ 関連動画サイト(You Tube・その他)


・  熱田神宮・歩射神事

・  下鴨神社・節分祭(蟇目神事)

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